日本古美術工芸複製品展開催
1947年03月帝室博物館では一日から二〇日まで表慶館で正倉院御物を主として桃山時代までの古美術工芸品の精巧な研究と技術による複製品を展観した。
帝室博物館では一日から二〇日まで表慶館で正倉院御物を主として桃山時代までの古美術工芸品の精巧な研究と技術による複製品を展観した。
読売新聞社主催、文部省後援の泰西名画展が一〇日から三〇日まで東京都美術館で開催された。国内にある西洋名画が多数集められ非常な好評であつた。
春陽会では一〇日日展不参加の声明書を発表した。従来は日展を総合展とする理想案実現に協力して審査員も出して来たが、昨年の日展の傾向から相反した性格を持つものとして不参加を決定した。
美術行政審議会では彫刻家の協力を求めて国会議事堂内に彫像の配置陳列を行つた。
新制作派協会に出品する室田豊四郎、古茂田守介らの新進によつて研究発表会のシツタン会が創立された。二月北荘画廊で第一回展を開いた。
千葉県山武郡成東付近で日大考古学会の門上秀叡等によつて前方後円墳が発掘された。関東には珍しい大和朝時代の遺跡で新しい型の埴輪なども発見された。
一二日京都八幡町の石清水八幡宮が出火し、同社所蔵の国宝御鎮座縁起絵巻をはじめ多くの美術品宝物などが焼失した。
光風会の中堅、大河内信敬、川端賞、朝井閑右衛門らによつて洋画研究団体新樹会が結成され、第一回展を六月日本橋三越で開いた。
富本憲吉ら旧国画会工芸部会員に山脇洋二・小合友之助が加わり新たな立場から新匠美術工芸会が設立され、六月東京高島屋で第一回展が開かれた。
各派各会の女流画家を網羅して女流画家協会が結成された。女流画家の地位の向上を目的とし選挙制による委員によつて運営し、二二年七月東京都美術館に於て自由出展制の公募展を開いた。
文部省社会教育局芸術課長今日出海は依頼免本官となり、一二日新に檜垣良一が任命された。
第五回野間賞が決定し、一七日講談社で授与式が行われた。美術関係では村田泥牛、木下義謙が美術奨励賞を、河目悌二が挿画奨励賞を受けた。
美術による観光日本の紹介宣伝のため観光美術協会が創立された。中沢弘光、石井柏亭、藤田嗣治、三宅克己が顧問、鶴田吾郎、向井潤吉らが理事となり運輸省、商工省が後援して、第一回展を二九日から一〇日間東京日本橋高島屋で開いた。
学校家庭一般社会に対する美術教育の普及徹底を目ざし、全国的な社会教育事業を行う財団法人美術教育会が二九日文部省の認可となり、寺内万治郎を理事長として発足した。
昭和一五年紀元二六〇〇年記念に一部展観された以外全く一般に公開されなかつた正倉院御物三三点が二一日から一一月九日まで奈良博物館で正倉院特別展として開かれた。非常な注目を集めて入場者は約一五万人にのぼつた。
各新聞社美術担当記者の連絡と親睦を目的として美術記者クラブが二四日発会式を挙げた。
帝国芸術院第一部会員富本憲吉は九日芸術院会員を辞任した。
機構改革にも抱らず論議の多い中に、文部省主催第二回日本美術展覧会が一六日から一一月二〇日まで東京都美術館で開かれた。
帝国芸術院では九月二七日戦後初めての総会を開き会則の一部を改正し一日発表した。新しい規約は第三部の音楽、雅楽、能楽の他に演劇、舞踊を加へることと会員の補充は各部門毎に会員の選挙によるいう二点である。
九月二七日の総会で新しい規約による新会員が内定し一日公表された。第一部では日本画の福田平八郎、奥村土牛、野田九浦、洋画の辻永、工芸の松田権六が選ばれた。